3月 232014
 

「人間は死んだら無になる。
だったら生きていても意味なんてない。
死んだ方が苦しみがなくて幸せだ。
だって生きることは苦の連続だから」

20代はこんな風に思っていた。
つまり
「みんな死んだら皆が無という“無苦”が得られて幸せだ」
と。

人はなぜ生きるのか?

人の幸福とは何か?

死という確定された事実を
忘却の隅に追いやってまで、
人はなぜ懸命に人生に花を咲かせようともがきあがき苦しむのか?

我らは奥底で知っている。
死は無ではないという真理を。

では何が死を無でなくしているのか?

不死なる魂が我らの内部に在る。厳かに。
それは永久に存続するものであり、真なる本性である。
我らすべてその流れの中に在って身を任せていられるのだ。

愚かにも人はそれを知らない。
死を無だと強要しているのは「知らない」という盲(めくら)である。
「知る」を学ばなければならない。

人は自己が不滅の魂という神なのだと知ることによって、
神にふさわしい生き方ができる。
それが人類の幸せであり、
人類すべてがその幸せを勝ち得た時、
人類に滅亡が許される。
その時が来るまで永遠に生きよう。

3月 182014
 

死んだら無だと確信があるなら、
我はなぜ生きるのか?

死にたくないからか?

死は必ず訪れる。
死刑確定囚である我らに上訴の余地はない。
嘆け!!

好きなことを思う存分したいからか?

ならば欲望の赴くままにやり尽くせ!!
「酒池肉林」
刃物で切り刻み、女を餌食にし、たらふく喰らい尽くせ!!
グヘヘ…
獣に心を委ねよ。
猛り狂え、忘我は気分がよいぞ。

だがなぜか心痛い。切ない。悲しい。
どうしてだ?
無である死よりも悲しいものがあるというのか?
人が生きるというのはその無を踏み越えるだけの動機があるのか?

「死=無」以上の価値がどこかに隠されているのか?

…!?

もしや死は無ではないのではなかろうか?
無であると思い込む我の思考に間違いがあるのだとしたら?

死を無であるとする意識は
快楽の沼に浸かり、自己を投げ捨て、実存をごまかす。
憐れ。

我は不滅たる我である。

無の中に沈みあえぐ我を虚無と頽落の沼から引きづり揚げた時、
目覚めた自我が無を無効なものとする。
これこそが自由。

勇気を出せ!!

虚無などとは、あきらめの言い訳に過ぎないのだから。

3月 122014
 

柔道の吉田沙保里さんの父が亡くなったそうです。

ですが私は言っている。
「魂は不死であるので死んでいない。在り様(状態)が変わるだけだ」と。

なのに「なぜ彼女は泣く必要があるのか?」

無理もない、柔道一直線だから考えることもなかっただろう。
死とは何かを。

私が教えよう。
我々が心肺停止という判断で死んだとされているのは
肉体の死であって、魂の死ではない。
その魂は肉体から抜け出て、魂の故郷へ向かう。
皆死ねばそこへ逝く。
そして両者の合意があればいつでも会える。
魂の感応を通じて。
だから父親が死んだのは魂が肉体から離れただけのことであって、
父親の魂はしっかり在る。視えないだけだ。
「父親がしっかり魂として生きていること」
それが分からないということはそれこそ死んでいる状態だ。
さぞや父親も娘が心配だろう。

悲しいかな、現代人は物理がすべてだと思っているからそう考えてしまう。
不死なる魂があるということに気づかないことの方が死なのに。

「気づきなさい、我らは魂(霊魂)という存在であることを」

追記:柔道ではなくレスリングでしたね。興味はありません。寝技以外は。

3月 042014
 

「神の誕生は、『未知への恐怖』から脱するための幻想が起源であり、
現代人にもその幻想が洗脳として受け継がれている」
という考えについて。

原初の人類の一人が、生の前と死の後について悩み、恐怖に襲われた。
考えても考えても分からない、誰に聞いても知らないことに、
ついには人智を超えた存在(神)を答えとして持ち出して
『未知』への恐怖を克服しようとした。

まずなぜ彼は「知りたい」と思ったのだろうか?
未知なら未知のままでいいではないか。

またそんなにまでして「知りたい」という欲求は
精神の内にある何が起因して、どのようにして持ち上がってくるのだろうか?

未知である生前・死後は『無』ではないかという思いは必ず脳裏にチラつく。
まさか『無』を知りたいとは思わないだろう。
無いものを知ろうなどという愚かさは彼にはないはずだ。
そこまで原初人はバカではない。

-人智を超えた存在である神-

誕生と死の理由である人生の意味を追い求め、
神にすがりつくほど「知りたい」と思わせる人類の願いはどこからもたらされるのか?

『苦と痛』が真っ先にあるだろう。

我は人であるということに気づけば、
苦痛は避けられない運命を背負っていることに恐怖する。
なぜなら死が身近にあったから。

原初人の死因のトップは飢餓、そして寒さからくる風邪だとされる。
(空腹は寒さを強烈にします。私の経験則です)

家族や集落の仲間がどんどん死んでいくのを彼は見る。
苦しみにうめきながら病する人に「なぜ」が捕えて離さない。

なぜ人は苦しまなければいけないのだ?
苦痛の意味とは何だ?

もし神が幻想だとしよう。
幻想を作ってまで「理由を知りたい」という人間の知恵への渇望。

知恵こそが神であり、
幻想とは知恵の獲得を放棄した人のことであり、
神(知恵)への到達を目指すために、
人類は苦痛の中で挑戦し続ける冒険家なのだ。

そんな知恵など初めからない?
求めるだけ無駄?

そうかもしれない。
が私は求めてしまうのだ、抑制が効かないほどに。
幻想で片づけてしまえという思考の放棄ができなくなっているのだ。
私は幻想ではないから。

2月 252014
 

私は死は怖くないと言った。
が死にたいと思うこともある。
生きるという修行がこんなにも切なくてつらいものだから、
いっそ逃げ出したい、肉体を脱ぎ捨てて、あの世へと往きたい。
だがその時私は「まだ死にたくないよ!!」と叫んでしまう。
なぜだろう?

「我々誰しも平等に死という約束された運命が待つというのに、
なぜ死にたくないと思うのか?」

「死の先が未知だからか?」(睡眠直前が怖い人いますか?)

※死=無を主張する人には恐怖などないはずだ。無という結論だから。

死にたくないというのはもっと生きていたいという感情であるからして、
『生への渇望』と言っていいだろう。

「ではなぜその生への渇望が湧いてくるのだろうか?」
「精神に内在するどんな力が、生への執着を抱かせるのだろうか?」

内部へと向かうと、
か細い声が聞こえる…

…あなたのために何かをしたいの…もっとみんなとつながりたいの…

我々がこんなにつらくても生きていたいと思うのは、
あなたと私が愛し愛され一つになりたいという思いから来るのだろうか。

であるならば死の恐怖という感情の正体は、
『愛の実践』がまだ足りないという未練から来るものであると私は思わなければいけない。

以上により、死の恐怖を克服する方法は、
愛の実践においてのみと思わず結論を出してしまったが、
私の死に際はどうなることやら。
自信は持てません(笑)

2月 132014
 

「死んだ瞬間はどうなるのか?」

今のあなたの意識・思考・執着心がそっくりそのまま在るので、
「俺、死んだの?」と思わず問いたくなるほどです。
あまりにもそのままなので居残る霊も珍しくない。
(幽霊の視えない私には分かりませんが、
江原さんや美輪さんはよく視えているようですね)

この世での未練が強ければ強いほど、自分は死んでいないもののように彷徨う。
それが浮遊霊とか地縛霊などと呼ばれている。
(早めに成仏してほしいものです)

少し余談:お葬式をあげるというのも意味があって、
「俺は死んだんだ」ということを霊魂に悟らせることができる。
葬式は地味でもしてあげるといいと思います。
ちなみに土葬よりも火葬の方がいい。
肉体への未練を完全に絶つためにも。

自分が死んだ後は肉体がないことに気づくことになるので、
だんだんと自分は霊魂という存在なのだと思うに至れる。
そして霊魂の本来いるべき場所へと案内される。
まずは幽界と呼ばれる世界です。

死ぬ前の自分と死んだ後の自分において、
肉体という制限によってできなかったことでも、
幽界では何でもできるようになる。

要するにこの世が思い通りにならない世界(娑婆)ならば、
何でも思い通りになる世界が幽界です。

幽界では、
そのままの自分が居心地のいいエリアで同じ価値観を持つ者同士で暮らせる。
そこで家族や先祖、友人知人、著名人に会えるかもしれない。両者の合意の元で。
何でも自分のしたいことが簡単にできるので本人にとってはまさに天国でしょう。
人がどう思おうと。

生きているうちに私が皆さんにお伝えしたいのは、
「そのままの自分は、死んだ後に向かう世界(あの世)でも変わらない」
ということです。

つまりそれは『自分からは逃れることはできない』ということを意味する。

2月 062014
 

自殺することは悪いことだと多くの健常者は思う。
(なぜ悪いのかは分かっていないように思われるが)

私は、自殺は1つの経験だとしている。
物質にがんじがらめのこの世はとかく苦難が付きまとう。
いっそこの肉体から解放されたいという思いは、
崖っぷちに油汗する人ならば誰しも思うことだろう。

自殺を考えてしまうほどの厳しい試練に臨んでいる者。
それは我々類魂のために経験を積み上げようとする勇敢な魂なのです。

自殺も考えないような生ぬるい人生ならば、
魂は大きく向上しないのです!!

自殺を罪だとして軽蔑している輩は、
チンタラと生きている愚衆である。
(カトリック教徒に多いかもしれません)

時々人生というぬるま湯に浸かって
面白いことがないからという理由で自殺を選ぶ人がいるかもしれない。
熱湯ならばすぐ横に用意されているというのに。
人類の魂を向上させるという使命ほどスリリングな人生を送れるものはないのに。

自殺した魂に罰則は与えられない。
次の来世では少しハードルを下げられた人生の取り組みが待つだけだ。

経験に罪も罰もない。
来世で提出しなければならない宿題の中身が変わるに過ぎない。

12月 262013
 

あなたはなぜ生きていられるのか?

死は闇なのだと思い込もうとしても、
魂は不滅の光であるという真理の前では
その闇は晴れていく。

では死とは何なのか?

この世での修行の終了と、魂の集う霊的世界への帰還。

あなたはなぜより良く生きようと欲するのか?

死んだらそれで終わり、ではないことを既知としている。
魂という土台において。

ならば我々は何のために生きるのか?

すべては神のため。
霊的向上の果てに神との合一を果たすため。

どうすれば神になれる?

我ら全てが神であるという信念を胸に抱き、
各々が愛の実践と感動を積み重ねることにより近づく。

生きていてもそんな実感がないのだが?

何事も1歩ずつ。
目には見えぬし、感じ取れぬが、近づいておる。
無駄はなき故、安心して生きよ。

(昌清さんみたいな人からの伝言でした)

12月 082013
 

親しい友人や家族が亡くなると寂しい。
「ではなぜ寂しいと思うのか?」
もう会うことができないと思うから。
が、それは違う。
死んでも魂はあり続け、会おうと思えば魂として会える。
(肉体として会うよりも感動的だ)
だから寂しくはない。

だがこの現世で生きる私たちは、
死んだ友人のことを思うととても寂しい。
親密であればあるほど生きる気力を奪われる。

そこで考えて頂きたい。
もし死んだ友が、落ち込むあなたを天から見たらどう思うかを。
私ならこう思う。
「死は誰にでも平等。一時の別れに自分の人生を左右されるな。お前のお前の人生を生きろ」と。

あなたは死んでいった人との思い出(経験)を胸に刻んでいるだろうか。

・私はあの人のために何ができたのか?
・あの人は私に何を与えてくれたのか?

この世に残された我々が、死者たちが残した意義を考える時、
たちまちのうちに死者の存在が意味を成す。
「生まれて生きてよかった」と。

墓場に死者の霊魂はない。
それはあなたの魂の中に住んでいる。
想い出と共に。

11月 112013
 

この16、17、18巻は読め。

この『天~天和通りの快男児』というマンガの本を読んだ。
(ヒロト氏がおすすめしていたので。私は麻雀を知らないので手を出したくなかったが)

16、17、18巻しか読んでいないが、
「安楽死」というテーマを扱った異質な章です。
内容は読んでもらうとして。

死は完成というのは正しい。
がゴールではない。(ゴールは解脱)
肉体に閉じ込められた小さな自分から、
大いなる自我(真我)へと解き放たれる。
さわやかな風に運ばれるように。

「生まれて死ぬ」というその間の経験はすべて、
魂にとってありがたいお土産である。
それを持ち帰ることは1つの完成であり、
この世に生まれた意味を成し得たということである。
その後は「無事で何よりお帰りなさい」という褒美が待っていてくれる。
まさに楽園、そんな場所でくつろぐことができる。

福本さんの詳しい経歴が分からないので断言できないが、
『天』18巻を書いたのが44歳頃で、
なぜこの死生観を得ることができたのか?
私の想像では、彼が20代半ば(28歳か)のマンガ一筋で頑張ってる頃、
栄養不良によりフラフラで倒れたことがあると思う。
(即席ラーメンとビール、せんべいでもかじってマンガと格闘だろう)
それからのインスピレーション。
18巻を書くまでの間、長く構想を温めていたと思われる。

人は自己の死と対峙する時、生を思うのである。
優しく厳粛に。

生きるって死が必要なのです。